時間は少しさかのぼる……
「はぁ……どうしたのかねぇ、あの二人は……」
ここは酒場町のパブ・ガイア。
女主人がため息をつきながらカウンターでジールを飲んでいる。
ふと窓の外を見ると、赤い夕陽が西の山に沈もうとしていた。
「あらいけない、もう夜になる。
奴らの大群が現れる前に店を開けておかなくちゃ!」
女主人は慌てて店を開ける準備を始めた。
この酒場町では、町にいる旅人を日が沈む前に強引にでも店に引き込む。
多少印象が悪くなろうが気にしない。
夜にやってくるレッドドラゴンフライから旅人を守るためだから。
それがこの町の、旅人に対する情だから……。
夜の帳が降りる頃、パブ・ガイアはいつものようににぎわっていた。
そして、店の外はいつものようにガランと静まり返っている。
誰もいない、何も動かない夜の町。
鳥達さえも森の奥に身を潜めている。
立ち並ぶ店のすりガラスから洩れるぼんやりとした光が点々と町を照らす。
「ハイ、ジール一丁おまち!」
さっきまでの憂いはどこへやら、快活な女主人の声が店内に響く。
「おっ、すまないねぇ。待ってたよ!
今日も繁盛してるじゃないか。レッドドラゴンフライ様々だね」
ほろ酔いの客が楽しげに女主人に話しかける。
「そんなことないさ。
奴らのせいであたしゃ一度もこの町の夜の姿を見たことが無いんだよ。
あんたは他の町で“夜”を感じたことがあるだろ?
あたしはこの町で生まれ、この町で育った。
だから本当の夜の町を知らないのさ。
一度でいいからこの町の“夜”を肌で感じてみたい……
昔、何かの本で『奴らの卵は奴らの命に値する』って読んでさ、卵さえあればこの町にも普通の夜がやってくるんだと思ってた。
だから昨日ここに泊まった若い二人に頼んだんだよ、卵を洞窟から持ち帰ってくれ、ってね。
だけど、二人はまだ帰ってこない……
あたしが無理な事を頼んだばっかりに・・・」
客の前では絶対に弱音を吐かない女主人がほんの少し涙を見せた。
が、すぐに持ち直す。
「まぁ、明日にでも帰ってくるさ。
今日は他の店にでも捕まってるんだろう。
もしかしたら洞窟には入らないで、一日中この町をうろついてたかもしれないしね……
すまなかったね、湿っぽいとこ見せて」
そういって女主人はいつのも笑顔を客に向ける。
「いや、いいんだ。俺も安心したよ。主人にそんな一面もあったんだと分かってね」
「なに言ってんだい!」
そうして、パブ・ガイアの夜は更けてゆく……。
月が天に昇り、いつもの時間がやってきた。
レッドドラゴンフライが洞窟から出て町を覆う時間だ。
しかし、今日はいつもと違い、時間になっても赤い大群はやってこなかった。
かすかな羽音すら聞こえず、風の音だけが町を包む。
「なんだか今日は様子がおかしいね。あの嫌な音が聞こえないよ……あたしも耳が悪くなったのかねぇ……」
客が寝静まり、一人カウンターに残った女主人がつぶやく。
そして、夕刻に夕陽をみた窓をもう一度見つめた。
普段ならそこには無数の赤いものが見えるはずだった。
しかし、今女主人が目にしているのは、夜の帳が降りた西の山だった。
「!!! ……まさかっ!」
無我夢中で店のドアを開け放つ。
……そこにレッドドラゴンフライはいない。
夜の町がそこにあった。
「ああ……ああ、これが……この町の…夜……初めて……初めて見た……これが、これが……」
驚きと嬉しさとが入り交じった、なんとも言えない感情が女主人をおそった。
あまりの感動で動けずに、女主人は門の前でへたりこむ。
そして、止めどなく涙があふれてきた。
月が西の山に沈む頃になっても女主人はまだそこにいた。
店の中に入ったらそれが夢のように消えてしまうと思いこんで。
ただひとり、うっすらと霧のかかったの町の姿をうっとりと眺めていた。
すると、霧の向こうからこちらに向かってくる人影が見えた。