空が高い。遙か水平に、滅多に見えないという小さな陸の影がぼんやりと浮かんでいる。天気は上々だった。
船は再び出航し、フォルクスとリオは再び海上の人となった。
出航からしばらく、船上の多くの人々の話題はもっぱらその前日に見た猛獣使いの芸の一座のことに集中した。
ヒョウとか象とかの猛獣の芸のこと、それからあの道化師はよかったとか、その助手の女の子がかわいかったとか。
「あんな道化師より、絶対、リオの方が格好良かったよな」
そういう話に適当に相づちを打ちながら、フォルクスはリオと二人だけの時にそう、こっそりとほくそ笑むように言ったものである。
むしろ、リオのほうがよっぽどそれに戸惑ったかもしれない。助けたつもりでいた女性が逃げてしまったような光景だったのだ。
「……どうして?」
そう、おそるおそる訊ねてみると、フォルクスは困ったように頬を掻いた。
「どうして、って言われてもなぁ、俺はそう思っただけだし……」
船旅の後半は、前半のどたばたが信じられないほどに平穏だった。これもセザールさんのお守りの御利益かな、とフォルクスはまんざら冗談でもなさそうに言った。
その『灯台守の心』はリオに渡している。持ち主を守るお守りとしての効果も絶大なはずだ、とセザールに続くように船長も太鼓判を押したので、それならいざというとき、精霊の加護のある自分よりはリオに、と考えたのである。
船長はその石にまつわる伝承歌というのを、あまり上手くない声で歌ってくれた。
海の神の娘といずこかの灯台を守る任をおびた騎士の恋物語と言ったていの伝承は、言ってしまえばどこにでもあるような種類のものではあった。
海の路を行く旅人よ、海神の娘らの先触れに心せよ
訪なう禍は彼女らのさざめき笑いの司りし波の如く
狭間に気まぐれに漂いて返して寄せるものだから
されど諸々変幻せし万危の先触れを余さず捕らえるは
ただ海神の娘らが恋し守護したもうた灯台の守人の
死して四散せし魂の宿る 海の神の創り賜いし玉石ばかり…
長くもない歌は、そう閉じる。
「それ、本当の話かな?」
訊ねてみると、船長は苦笑気味に肩を竦めた。
「その灯台がどこにあるのか、その騎士がどこの国の騎士か、全く伝わってないのは確かですがね」
ラジアハンド城。
夜空が白み始める頃にやってきた青年は、妙にそわそわした風な召使いの男を一人見つけて、その前へ立ちはだかった。すると彼は小さく悲鳴を上げた。
「ずいぶんと失敬だな。何もそう怯えることは無いだろう」
言いながら、召使いの手を掴みあげて、そこにあった紙片を取り上げる。
背の高い、赤茶の髪をした青年の手の力は強かった。
「『ビショップ、再度不在』…今月の頭に城に忍び込んで猊下にボコボコにされたヤツが居た、と聞いたが、その関係者か?」
身なりから見れば、帯剣はしているが騎士ではない。どうやらある程度の身分はある貴公子のようだったが、具体的にどの家の誰かは判らなかった。
「まぁ、今警備隊をたたき起こすのもちょとと、という時間か」
呟くと、青年は妙に悪戯っぽく笑いながら、縄を取り出した。手際よく男を縛り上げて、最後に彼がどこかへ送ろうとしていた手紙をその縄と身体の間に挟む。
「女の子だったら俺が尋問してやってもよかったんだけどな。
ま、夜が明けたら巡回兵が拾ってくれるだろうから、それまで寝てな」
軽く蹴って、間諜の召使いを地面に転がすと、青年はステンダー領王家の城内別邸へ向かった。
門番には丁重に迎え入れられたが表玄関から邸内に入るわけでもなく、庭へ回って一階の窓の一つに目的の人影を見つけて、軽く叩く。ややあって、窓が勢い良く開けられた。
「やぁ、アーリン。久しぶり」
「エーリック!」
青年は身軽く、まったく貴公子らしくなくそのまま窓からアーリンの部屋へ入った。
「あなた、またそんなところから……たまにはちゃんと表玄関から入ってきたらどうなの? 領主様にもちゃんとご挨拶もしないで」
「あんまり堅いこと言うなよ。おじいさまへの挨拶は今度、ちゃんと帰ってくるときにはするからさ」
青年の名はエーリック・ステンダーという。当代ステンダー領王の直系の孫で、アーリン・クランとは外戚の従兄妹にあたる。今年二十五歳、王宮では無位無冠ではあるが“本物の”ステンダー領の世継ぎである。
「今度、じゃないでしょう。もう一ヶ月無くて舞会なのよ。まさか、またすっぽかす気じゃないでしょうね」
「出るよ。どうやら今年は我らがビショップ猊下の晴れ姿が拝めるらしいし」
アーリンは軽くため息を吐いた。本来、一領土の世継ぎともなれば様々な公式非公式の社交場へ出て行って然るべきである。まして、舞会はこの国の最大の社交場といっていい。
ところが、エーリックは社交界どころか、放浪癖とでもいうものがあって、このおよそ九年の間、そもそも城にも領地の屋敷にも居着いた試しがない。
「そんなだから、貴方の代わりで社交界に出るあたしが領主様の跡継ぎだ、なんて訳の分からない勘違いが蔓延するんだわ」
理由がないわけではない。本来、エーリックと領主の位との間には父親と四人の兄がいたのだ。絶対に彼にまでまわってくるわけがない、と騎士団の放り込まれたのが十三の年。一時は、現在は若くして最高位騎士にまで上り詰めたグレッタなどと同等の有望株と見られていたこともあったが、十六歳で捕虜虐待の罪に問われて除隊されている。
それ以来、出奔して旅の空、たまに気まぐれで帰ってくる、と好き勝手にやっていたわけで、四年前のステンダー領を襲った疫病で領主一族のほとんどが死に絶えるということがあって世継ぎとなった今でも、いっこうに改める気配もない。
当時の疫病で生き残ったのは彼の他には領主その人と、外戚ながらアスリースへ留学していたアーリンくらいのものである。
「舞会に、例の白ウサギ君が来るのよ」
つもる話の合間にアーリンからそういう言葉が出ると、エーリックは首を傾げた。
「どっちから? 陸路からだと面倒なんじゃないか?」
アーリンにしては珍しく抜けてるな、といって、エーリックは一般人の国境越えのチェックは厳しくなっている、と言った。
「国王陛下の暗殺未遂があったって聞いたんだけど、そのせいじゃないのか?」
「……で?」
エーリックの、妙に楽しそうな口調にアーリンは声を一音域下げる。
「迎えに行こうか、俺が」
「それでそのまま舞会が終わるまで帰って来ないつもりじゃないでしょうね」
「……そんなに信用無いか、俺は」
「二年連続ですっぽかした人が当てにできるものですか」
エーリックは一言もない、と体言してみせる。
ふと、思い出したようにアーリンはもう一つ、在村銘の剣の所在を知らないか、とエーリックに訊ねた。
「在村ってあのテーヴァの?」
レイチェル猊下たってのご希望で在村銘の剣の展示会を、という話を聞いて、彼は少し考え込む。
「なんとかならない? そういう捜し物は得意でしょう?」
「……四剣聖の、とかいうほどじゃなければ、それから持ち主つきでなくていいなら、心当たりはなくもないけど」
「じゃ、お願いね。社交場の皮肉と嫌味合戦は引き受けてあげるから」
「了解。白ウサギの捕獲と剣、だね」
エーリックは踵を返す。もう一度、窓から出ていこうとする従兄の背に、アーリンはもう一度呼びかけた。
「ちゃんと帰ってくるのよ。こなかったらどうなるか、判ってるでしょうね」
「どうなるの?」
面白そうに聞き返すと、アーリンはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「貴方がよく出入りしている城下の花街に手配して、出入り禁止にするわ」
「……え、あの、アーリン?」
冷や汗をかくエーリックの目をまっすぐ、彼女は見据えた。
「誰かさんの代わりにあちこちの社交場に出てるから、それくらいお願いできるくらいのコネはあるわよ。そういうお店のきれいなお姉さんたちとお別れしたくなかったら、ちゃんと帰ってくるのね」
「……ごめん、アーリン、俺が悪かった。ちゃんと帰ってきます」
蒼月初旬、ちょうど、フォルクスたちが海の旅の後半に入った頃のことである。