ファンタジア

セザール16

「ああ、それはこっちに持って来ておくんなまし」
 先生は思いっきり怪しい方言で俺に指示を出す。
 俺は、先ほどから何やらがさごそと無気味な音を立てている木箱を持って屋根裏へ上がって行く。
「……ハワードさん、よく先生の同居を許しましたね」
 俺は立派に一人部屋に改装された屋根裏に足を踏み入れ、唖然とする。俺が以前ここに帰ってきたときにはここは、埃と蜘蛛の楽園だったはずなのに。
「あら、知らなかった。もう三年になるわ、ここを借りて。さすがの私もいつまでも宿暮らしってのはつらくって。説得もつらかったのよ」
 俺は木箱を部屋の端にゴトンと置く。突然木箱の中身に、ウォウと低く吠えられた。
「……。先生、今回はずいぶん遠出なさっていたようですけど、一体どちらへ」
 俺ができるだけ平生を保ちながら、こんなのいつもの事だと自分に言い聞かせながら聞く。すると、先生がふっと表情を曇らせたのに気が付いた。
「…そうね。本当に今回は遠出になりましたわね。大陸をぐるりと回って、友人の家へ行っていましたの。その方が亡くなったって聞きまして、急いで向かったのです。しかし、私がその方の家に着いたときは既に、もぬけの殻でしたのよ。何か一言、遺して下さっても良いではありませんか」
 もぬけの殻? 既に葬式も埋葬もが終わっていたという事かな。
「先生の友人。というとは、先生の同業の方ですか」
「まあ、そうですわね。なかなか腕の良い方でしたのに」
「お弟子さんとかはいなかったのですか?」
「そうねえ。弟子ではないけれど、似たような者は、いたかしら。まあ、会わなかったけれど」
 先生は何か面白い事でも思い出したのか、にやりと笑った。
「この世の優れは、疾く消え去り、逝きて戻らず…ね」
 俺は先生が古い聖典の一節を口ずさみ感慨にひたる様子を、無心で見つめた。
「ん? なーに、その目は。あんまり良い感想を抱いていないようね」
「あ、いや、そんなことは」
 先生はふふん、と鼻を鳴らす。
「まだあんたは容姿の事なんかにこだわっているのかしらん? やめなさい。私の弟子なんだから」
 弟子ってなんだよ。
 一瞬、かなり切実な疑問が頭をよぎった。

 

 先生はやはり、以前に会った時『そのまま』の姿、容貌でそこに立っていた。
 短く黒い髪に、銀縁丸眼鏡の奥にある大きな瞳、明らかに俺より十五歳は若いすっきりした顔。どれをとっても『そのまま』だった。しかし、俺はもう驚く事はなかった。
 馬車一杯の荷物――大きく膨らんだ麻袋や小さめの木箱がいくつも、ハワードさんの家の入口に積まれ通行人の視線を集めた。
 それをすべて俺が屋根裏に持って行き、部屋の容積のおよそ三割を埋めた。
「やっと片付いたわね。ま、整理するのは後ででよろしいですわ」
「まさか、それも俺が?」
「……そうね。いいわ、それは私がするから」
 それを聞いて俺は心底ほっとした。あんな、得体の知れない生物が詰め込まれている木箱なんて、開ける事を考えただけで命が減る。
「さ、下に行きましょうか。お茶でも飲みましょう」
 窓から外を見ると、いつの間にか空が深い青紫を帯びていた。
「ちょっと待ってなさい、取って置をいれるからね」
 俺は椅子にちょこんと座って『取って置』を想像した。何度考えても恐ろしい者にしかならず頭を悩ませながら待っていると、どこからともなく何とも香ばしい薫が漂ってきた。
「はーいよ、おまたせ」
 そして、先生が運んで来た白い湯気を立たせるカップの中身を見たとき、その芳香によって湧き上がっていた期待は見事に打ち砕かれた。
 そのカップに並々と注がれている液体は、黒月の夜空のように黒かったのだ。一体、これのどこからこんな香ばしい薫は発せられいるのだろうか。
「ううん! おいしいわ。向こうで飲んだくらいとはいかなくても、きっと合格点はくれるわよ。ん、どしたの?」
 先生、正直に言え。あんたは海の向こうに行ってたんだ、そうだろ。
 俺は怖すぎて決して口に出せない台詞を、心の中で吐いた。
「……ん、んじゃあ。いた、だき、ます」
 意を決した俺は手にしたカップを無機的に口へ持って行く。湯気の熱気と薫に顔を撫でられながら、液体に口をつけた。
「!?」
 液体が流し込まれると同時に、舌に熱が突き刺さる。次いで口の中に強烈な苦味と酸味が広がり、のどの奥へと流れ去ると共に鼻にあの香ばしい芳香が抜けて行く。
「熱っ、苦っ」
「あらら、お気をつけなさいよ」
「これは、なんなんですか。ずいぶん、キツイ味がしますけど」
 俺は火傷気味の舌に残った苦味に顔をしかめながら言った。
「そう? あなたの舌には合わなかったかしら。これはね、ある植物の実の粉から煮出したお茶よ。ある宗教の信者が好んで飲む物なの」
「実からお茶?」
 お茶は葉っぱから、という事しか知らない俺には全く理解し難い話だった。
「それはいいとして、あなた」
 先生がずずずっとお茶をすすりながら言った。
「あなたこそ一体どうしたの? 旅に出ていたんじゃなくって? 何か、あったんでしょ」
「あ、ええ、ちょっと。あの、先生に、先生の実験器具をお借りしたくて」
「まあ。きっと、酷く汚れてるわねあそこも。けど、あんな所で何するの」
「ちょっと石を――」
 その時、ドアが開いて誰かが入ってきた。この家の主、ハワードさんだった。
「……。やはり、お前だったか。ヘルメス、ドアは手で開ける物だぞ。靴跡を残すような開け方はやめろ。それに、…天井は無事か?」
 そう無表情に天井を見たハワードさんに先生はふふっと笑い、
「大丈夫よ。軽い物だけしか持ってきてないもの」
 天井が抜けてしまう何かを持って来た事があったんだな、きっと。
 その光景を想像すると、どうも笑う事ができなかった。

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