疾風。
それに変わりゆく感覚は危険なものだ。麻薬的な作用さえ持つそれは、しばしば感情を殺し切れない駆け出しを食い尽くす。そうなれば無惨な光景を眼にすることが出来る。走りながらにして意識を拡散させた者は、絶死の激突まで止まれないのだ。
以前“黒型−壱千三拾八”――彼に相応しい名だとは思わないが他に名がない――が酔う事のない酒を呑みながら語ってくれた。
『自分から木にぶつかって潰れる人間を間近で見たことがあるかね? あれは酷いものだよ<――>君。速駆けは忍の必修技能だからね。避ける事は進められないが……もっと良い方法がないかと私達はいつも思っている。……これに限ったことでもないがね』
その時、自分はこう言った。
『完全な安全など請う方が間違っている。特に我らはな』
冷たい男だ。今ならば、そう思えるようにさえなった。いくら強制観念から抜け出せてないといっても、その時でも紅ならばもう少し気の利いた事は言ってみせただろう。根本で違うのだ。あの男と自分は。
今が最良だとは思いたくない。現に“今”考えたように『あの頃の自分』を否定できるように成長していたい。増長を戒めるためにも。
それが強制観念を捨てた代わりに生じた“心”の責任。
そうだろう。
そうだろう“黒型−壱千参拾八”よ。
そうなのだろう……師よ――
蒼は一度たりとも口に出したことのない単語を思った。
速度を落とすと視界が拓ける。他の者であれば眩暈程度の弊害があろうが――それが戦闘状態での多用を少なくしている――自分には関係ない。“交換”した視覚は常に必要過多の情報を提供してくれる。それはそれで聴覚や触覚を殺す事となるが、里の魔術者は弊害を考える事はないだろう。最大限の能力、それが頭領が示した暗者達の路であるから。
――この辺りか……
一息にギィド峰まで駆け、巨大な樹上で停止する。索敵を行いながら脚部を冷却。
動く物を察知する。
この辺りで動いていていい物は――
――テラ=ドラ、クーバー=コントレルホ、ディレクセェン=瀞、黒崎=昌、栢凪=絣、リョウルク、サラフィティス=ストラフティート……あとはタントル=スカイか……功名の流浪衆などが二、三確認されてはいるが早過ぎる。
その中で確率の高い者を探し、結論する。
誰であっても目的に支障は無い。
『誰か!』
率直過ぎる誰何。紅がいたらあなたらしい、と笑ったであろう。そんなことが脳裏によぎる、成長の証。
答えは僅かな逡巡の後の返された。
「蒼様。私にあります」
声紋に“見覚え”は無い。だが、こちらの特徴を変えた声であっても容易く正体を当てた。となると――
「陰供か……誰の下に付いている……?」
声を戻す。だが、警戒を解いたわけではない。逆だ。安心したと気配を偽る。真にこちらを知っているものならば通用する道理は無いが。
「……ザン……止めときましょう、双方のためにも。全く嫌な時に現れますなー、蒼の旦那」
相手はこちらが警戒を解いてないことに感づき、そして態度を改めた。だが、だがこの声は!
「貴様は……ストラフティートか。しかし、…………」
「こちらが情報を掴んでないとでも? 無条件にそう思い込む事は貴方らしくないんじゃないですかね? 魔術加工の忍者さん♪」
蒼は全神経を使い本格的な索敵を行使する。
情報を持ちすぎている。尋常では調べられようの無い情報までも所持しているという事は、里に――いるはずの無いのだが――内通者がいるという事だ。
捕縛する。
「貴様は『長耳』か!」
愚にもつかないことを叫び、時間を稼ぐ。
あるはずが無い。エルフだからといって『長耳』の者と決めつけるなど、三流未満の所業である。
姿の見えない会話は続く。
「……『もういいかと思ったんですけどね。蒼の旦那様。そろそろ“あやつ”のやる事が無くなってきてる頃だろうし、早いとこ始末しないと里にも影響及ぼしますぜ? お、サラフィティスごくろーさん♪』……調べられても時間の無駄でしょうし、ばらさせてもらいました。矜持というものも覚えてきた頃なんでしょう? 蒼型−弐百拾八−是さん」
ようやく考える材料が揃ってきたようだ。
考える楽しみを得た進化途中の猿人のようにリョウルクは考えたがる……時間があれば。
「――えぇーい!」
停滞の間は無い。垂直を駆け上る“山犬”に向かって石突を向けそのまま飛び降りる。巨体の降下と甚大な反錘は容易く“山犬”を潰す。間髪入れずに奇形槍を振り回して威嚇。尾を地に付け逃げのない構えで槍を正眼、群れをねめつける。
咆哮。
大気を唸らせ不可侵の場を作る。
しかし、相手は死した獣。
そのような“暗黙の了解”じみたものなど解しはしない。
と、
眼前の“山犬”が何か巨大な物体に衝突され、薄く吹き飛ぶ。
「……昌さん……?」