足音である。
五月蝿(うるさ)いほどの足音がこちらに向かってくる。
癖が出る。足音から人物を推測するのだ。まず鍛錬で叩き込まれる技能……だったはずだ。蒼(そう)に覚えはない。錬師になるような柄でも位でもない。
四十代。腰に直刀。正規の、真剣に戦闘の事を考え一定に捕らわれる事のない訓練などは受けていない。あるいは受けても真剣ではない。動揺している。怒っている。だが恐れてもいる。自信はある。だが小心者でしかない。被害妄想が似合いそうだ。体重がある。平行が悪い。酒類をあおっているのが目に浮かぶ。その時の顔もだ。小さい卑屈な両目を泳がせているだろう。それでも独白は強気だ。子鼠の物音に哀れなほど慄くのだ。その後はまた強気でくだをまく。――愚昧な男だ。
結局、想像になっている。外れているという気はしないが。
「なぜあの男をのさばらせておく」
側らの優男――こういう顔形を美丈夫と言うのだろう――は唐突な質問に動じる事無く、即答した。珍しく、でもあった。
「便利だからです」
足音が大きくなる。会話は聞き取られはしない。音の測量も必須技能で基本である。指定域へと飛ばす圧縮言語も。
「……あの人がいないと貴方が表に出ることになりますよ?」
美丈夫は硬質化するほどに古い巻物から目を離さずに言う。果たして誰が、彼はその書を暗記していると言って信じられるであろうか。その速さは街で言う速読と変わりないではないか。そしてまた、その巻物が表と裏の世界で名を残した忍の者、庵(あん)の記した、かの著作『無題』だとどうして信じることができようか。この場にアカデミー――いつも何かしらをしているあの学び舎の者がいたならば、美丈夫の暗記の速度に羨望を覚え、『無題』の存在に自らの立身を夢見るに違いない。
「お前でも構わん」
敢えてそう挑んだ。
紅(あけ)という号名を受けるこの男が、里の先頭に立つことなどあり得ないと知りながら。
「私じゃあからさまに疑われるでしょう。あなたでは役不足ですよ。他の六頭(ろくとう)を油断させておくにはあの男が適任です」
「いずれには斬り捨てるのだな」
「……よし、終わりです。――えー、蒼? 私はこのところ腑に落ちないことがあるんですがね。いや、今に限ったことじゃありませんが、何故あのデーレ=ドゥクストが今になって――今更、政府庁を潰そうとしてるんです?」
紅は『無題』を丁寧に巻き直した。それをさらに丁寧に桐箱に仕舞う。
足音は動きを鈍らせた。
逡巡、か。
「俺は今だから、と考える。幾年も街で暮らしているからこそ政府庁の汚泥が目に付く」
足音が止まる。
「……彼らの寿命から見るともう衰えてくる頃ですよ。彼ほどの人が機を詠み間違える事はありません」
片足が上がり、その場に落ちる。
「衰えてくるからこそ今出なくてはならんのではないか」
つま先が苛ただしげに木製の床板を打つ。数度。
「衰えてくる前にも腐敗なんてものは判っていたでしょう。なら、その時にやるべきです」
完全に足音が止まる。
「腑に落ちんか。理由など幾つも考えられる。正確な答えなどデーレ=ドゥクストに訊かねばわからぬ。今やるべきは――」
「世話かけますね、迷うならば来なければいいのに」
蒼はゆるりと立ち上がった。首もとの含鉄布を引き上げ、顔半分を隠す常の外見に戻り――
――正確に過剰な力をかけて簡素な扉を開く。
予想に違わぬ無様な格好で驚く四十代、腰に直刀、怒っているような恐れているような自信に溢れているような小心で怯えているような、そんな男がいた。
「――ようこそ、副領殿」
紅の変わらぬ態度は尊敬に値する。
蒼はそう思った。
「用件は」
蒼の威圧感しかない声。意識してやっているのではないのだろう、彼の唯一の表情である。注意しようとは思わない。
「い、……やっ、な、何でわしに無断で政府庁の者を消したっ?」
対照的に副領の声には威圧感も貫禄もありはしない。あるのは恐れと欺瞞(ぎまん)と我が身可愛さ、その程度の“小さな”感情だけ。恐らくは今の副領では最下級の者にも楽に獲られるだろう。この男は上に立つ者でも下で支える者でもない。一人で生きるべき者だ。間違ってもこんな所にいてはいけない。
それは彼の不幸だな。
紅は柄にもなくぼんやりと薄考した。
「所詮はあの男一人で片がつく連中であろう。主の耳に入れるほどの事ではない」
副領はさらに見ていて哀れになるほど狼狽した。顔面が薄明かりの下、紫色に変色している。絶え間なく小さな眼を泳がせて何かを――ある訳がない――無条件の助けを求めているようだ。
「では……あやつはどうなっておるのだ?」
こちらを向いて副領は取って付けたように問うた。目を合わせてやる。彼は矮小な眼をよくぞこれまでというほどに丸にして、慌ててあらぬ方を見つめる。
「今は止まっている。だが副産物が予想を上回っている。≪長耳≫が痺れを切らすのにそうはかからん。≪小精≫も、だ」
いつから自分たちは副領に対する口調を改めたのであろうか。覚えていない。出会った頃――砂塵の国の闇市では底知れぬ男に見えたものだった。今から思えばその時傍らにいたデーレ=ドゥクストの印象が強かったためなのだろう。あの戦術は自分にとってあまりに衝撃的だった。
「小頭からの報告があった。アカデミーが動いたようだ。いや、アスリースかもしれんな。二頭の甲殻馬がこちらに発った」
蒼にとってはどうなのだろうか。
苦笑。顔には出さずに苦笑する。
判る訳がない。彼にもわからない経歴が、判るほどの腕があるのなら自分はとうに――
「二頭……! 二頭で、か?」
その意味に副領は気づいているのであろうか。敢えて教えてやるべき事でもないが、言う。
「腕のたつ二人なのですよ。滅法ね。アカデミーが二人に任せられるほどに」
しかし、その話は紅は聞いていない。だが、聞くまでも無い事だった。今のアスリースで腕のたつ、最上級の戦技を体得せし者。
「テラ=ドラ。そうですね、蒼?」
「そうだ。後の一人はクーバー=コントレルホ。アカデミーの者で魔術師だ。名は無いが、な」
副領はたちどころに震え出した。粗末な床が鳴るほどに全身を振動させ、あたかも頑固な二枚貝のように唇を閉ざす。
上に立つ者の責任。
それを感じていると言えば、それはあまりに持ち上げすぎというものである。
度胸も胆力も無い。そのせいだ。
「例の小集団――あの在村の縁の者でしたからね。宝刀と呼ばれる物を二つ所持している彼が出てくることは予想していました。そのクーバー=コントレルホという人は知りませんが」
「獣人だ。それ以外の情報は無い。警戒の必要はある、だが無名にすぎん」
その言葉の意図を紅は理解しかねた。蒼は無駄なことをしない、いや、嫌っている。副領に協力する事にも何度と無く疑問を投げてきた。その度に自分は曖昧な返事を創っていたのだが……何故今、奴を安堵させる。
「問題はその事ではあるまい、主よ。布石は既に打ってある。次にやるべき事は――そのために来たのだろう」
何らかを考えている。その貫徹した冷静さで副領に“仕掛け”ようとしている。表に出る決心がついたのか? だとしたら新たな思考を開始しなければならない。
だが、得心がいかない。
“あやつ”を放った今、更に派手に動く事は我らには合わぬ。
その先入観を持たぬのが蒼ではあるが。
「そ、そうだ。わしは思うにはデーレの奴が怪しいという事を知らせようと、な」
紅は表情には出さず驚く。この男がそれに気付くとは思わなかった。過去の同朋というだけで絶対の信頼を求めるような者だとばかり――いや、違った。その遂には媚びるような顔を見て判る。観察と洞察で見抜いた事象ではない。結論に達したのは彼の愚昧なる自信、それを発端とする度の過ぎた猜疑心だ。自分達にとって、あるいは悪いものでないかもしれないが誉められたものでもない。
愛想が尽きた。
「彼からあなたにこの件があったのでしょう?」
副領の顔面は更なる変化を成す。紫から濃紫へ。鬱血して倒れそうにも見える、そんな“色”。
いつからこの男は自分たちが味方ではないと気付いていたのであろうか。“あやつ”を放つ前は確かではないが、中身の無い意見を出したりはしていて、形だけの上位者を気取っていた気がする。その後もそうだ。放った後も自分が何も知らない事に一人だけ気付かず、報告に大仰な頷きを返していた。
いつからだ。
この男が自分たちに対する態度を変えたのは。
迂闊(うかつ)だった。その程度の事にも気付かない自分の方こそ愚かではないか。気の変化を読み取れずして、何が六頭か。
それほどまでに副領の存在が霞んでいた。目下の事象に砕骨しすぎという事であろうか。
「主よ。いや、仮初めの主よ。あなたの役割は何だ」
沈考してしまった紅の代わりに蒼が問う。
「わしの役割、は……皆を見守る事……い、いや! 主らの不在の中での里をまとめておく事だ!」
不在中の里をまとめておく。
大意は、居る時には何もせず、居ない時は違う者――恐らくは六頭の黄(おう)あたりであろう――に留守を頼む、そういう事だ。邪魔な愚者は何もせず。立場は判っているという事か。
「あなたが役割を理解しているのなら、いい。下の者もそれに従おう。――紅。俺が出る。テラ=ドラともなれば“あやつ”も潰されかねん。“頼んだぞ”」
蒼は圧縮隠語を放って副領の佇む扉に向かう。
副領は何も言わず、ゆらりと退いた。
「ええ、わかりましたよ。“副領の事は任せておいて下さい”」
紅は苦笑を含んだ声音で返した。
――やはり蒼は冷静だ。