この砂漠に、名は無い。必要が無いのだ。ほとんどの人々にとってラージバル大陸が全世界であり、その全世界に、砂漠と名のつく地は一つしかないからだ。この砂漠を旅する旅人は、夜明けからしばらくの間と、夕刻から日没までの間に移動をする。真昼は灼熱の太陽にあぶられて、動けば十倍、百倍以上に体力を奪われるし、夜になれば逆に零下の極寒となり、火を絶やしては耐えられるものではない。そういう時間帯はじっとして体力の無駄な消耗を避けるのが、賢いやり方だ。
だから、点在する砂漠の宿場町は通常の宿場が繁盛する夕刻のほかに、昼、太陽が昇りきる前に宿を取りに来る者も少なくない。
フォルクスもまた、そういう客の一人として、店に入った。一階は酒場、ニ階は客を泊めるための部屋という、よくあるタイプの店だった。
活気がある。アスリースの酒場とはやや性質の異なる活気だ。つまり、まだほんの入り口とはいえ、“さすがはストレシア”という雰囲気が混ざっている。
「相部屋、前金だ」
泊まる、というと宿のおやじは愛想も無く告げる。フォルクスは頷いた。
「充分。それから飯を適当に……」
言いながら、さりげなく、横から伸びてきた手を掴んで、ぐい、と捻りあげる。掴みあげられた子供がじたばたともがいた。逆の手で、その子供の手に握られている自分の財布から銀貨を取り出して、おやじに手渡した。
「ケチる気はないから、部屋の相方はそれなりの奴とな」
「離せよっ!」
スリの子供がわめいた。フォルクスはその腕を掴んだまま屈み込み、表情を消して子供の顔を正面から見据える。不意に、スリの子供は大人しくなった。表情を消した赤い瞳は、子供の目には魔物のそれさながらに見えた。
「運が無いな、お前。お兄さんは魔法使いだ、悪い子供をおしおきする、な」
子供は怯えた様子であとずさる。フォルクスは押し殺した声で精霊に呼びかけた。と、フォルクスの目と子供の目のちょうど間の宙空に、不意に炎の塊が現れた。
目の前の、赤い魔物の目をした男の不気味な白い肌に浮かんだ赤い唇が始めて、微かに、笑うようにゆがんだ。
ボンッ、と音をたてて、炎が弾けた。子供は反射的に逃げ出した。いつのまにか腕が離されていて、財布が取り返されていることに気がついたのいは、ずいぶん後だった。
ふぅ、と息をついて、
フォルクスは立ちあがった。魔物めいた表情はとっくに消えている。
「噂通りのとこだなぁ……まったく、油断も隙も無い」
「それにしてもえげつないことをするな、“魔法使い”?」
不意に背後からかかった声にぎょっとして振り向く。
神官騎士の鎧が人を入れて立っていた。右手を、ちょうど剣から離したところだった。察するに、フォルクスがおしおきを通り越してあの子供をどうこうすることがあったら牽制しようとしていた、という辺りか。
「人聞きの悪い…俺は“いい魔法使い”ですよ、神官騎士さま」
軽口を叩きながら鎧の紋章に目を留めて、軽く眉をひそめた。神力国家ラジアハンドの王室の正規の神官騎士。
「…で、騎士さまは世直しの旅路ででも?」
「我がラジアハンド王国のビショップ猊下をお探し申し上げている」
「……は?」
思わず、フォルクスは一番間抜けな問い返し方をした。
「先日行方不明になられた我が国の高位ビショップであられる賢者レイチェル猊下を、だ。そなた、旅路に噂なりとも聞いた覚えはないか」
フォルクスはかぶりをふった。そんな「ばあさん」の噂は聞いたことがない。
そうか、と
言いおいて、神官騎士は去った。
「行方不明…ね」
いったいどういうばあさんなんだ、とフォルクスは首を傾げた。
どだい賢者とか猊下とか呼ばれるようなやつはじいさんかばあさんに決まっている、とフォルクスは思っている。王国正規の騎士が探しまわるような人物ならば、なおさらだ。
誘拐されたのか。だが、高位魔術師の魔力と高位神官の神力を持ち合わせるという高位ビショップともあろう者がほいほいと誘拐されるとも思えない。と、いうことは…
「自分で勝手にいなくなったってことだよな。元気なばーさん……」
軽く肩を竦めて、フォルクスは運ばれてきた食事にありついた。
目下の所、そんな「ばーさん」は彼の目的には何の関係も無いことだった。