言うまでもなく、ラージバル大陸で国の名を冠するのはラジアハンド、クラリアット、テーヴァ、ストレシア、そしてこのアスリースの五国のみである。「王」の名を冠することの許された大領主の地方領を「国」と称することがあるが、それは慣例の呼称にすぎない。
「つまりそのエーレブルー国ってのは、“海の向う”、か」
気に食わなそうにフォルクスが呟いた。それはラージバル大陸の住人のほとんどにとって、異世界も同然の言葉であった。
「海の向うっていうと、あの、蛮地とか幻の国とか幽霊の発祥地とか化け物がごろごろいるとか実は第二の帰らずの島とか妖魔の国とかいう噂もある、あの……」
「下層の民間の俗説だ」
わざわざ酷いのを集めているとしか思えないヴァンの発言に、アストは軽い咳払いとともに憮然として言う。
「そ…そうですよね。リオちゃんの生国もある所なんだから……んな変な場所じゃぁないですよねっ」
慌てて取り繕うヴァンの調子の良さは昔からさして変わらないから気にしない。フォルクスはさすがに、途方にくれた。
「確かにお姫さんのやり方くらいしか丸く治める方法はない、か。
仕方がない。この件はこれで一応、終りだな」
根本的に解決したくとも、そうそう簡単に行ける場所でも行って良い場所でもない。それでなくとも、どうやら真面目に対処することはれっきとした国に喧嘩を売ることになるらしいというのに。
ところが、ヴァンは反対だと言った。わざわざフォルクスの方に向き直って、である。
「お前、話、ちゃんと聞いてたか?」
「だって俺、アカデミーへの依頼の調査で動いてるから、報告書書かなきゃいけないんだぞ」
「適当に書いておけよ、そんなもん」
確かに、アスト王子に言っても仕方が無いことだ。目で、理由をいってみろと促す。
「今のその手の書類管理、クーバー師なんだよ! 覚えてるだろ、ソーサレス部門の教官やってた、めちゃくちゃ細かい“事務屋”のじじい。
そりゃぁ、研究や教官やってるよりは適任だけどさ、俺、あのじじいの無駄に細かいチェックのせいで修了課題研究の論文さんざん落されて、お前より一年も学生部修了が遅れたんだぞ」
「俺が知るかよ、そんなこと」
と、そこで意外にも、アスト王子が口を挟んだ。
「それなら、僕を手伝ってくれないか、ヴァン」
意図が掴めずに、二人は顔を見合わせる。
「エーレブルー本国はともかく、おそらくそこから派遣されたサイオニックらしき人物の正体くらいは掴みたい。あの三人の誰でもないことは確かだからね。
これは僕個人のけじめのつもりだから、強要はしないが」
天からの啓治を受けたように、ヴァンの表情が変わる。
「そうか! そいつをとっ捕まえてアスト王子の傷害犯として警備隊に突き出せばアカデミーの管轄を離れるんだ。クーバー師も口出しできない。
やります、アスト王子様。手伝わせてください、ぜひ」
さすがに呆れかえりつつ、フォルクスはアストの方へ向き直った。
「俺はもう降りますよ。さすがにそこまで事を構える気はありません。それに……彼女のこともあるでしょう?」
隣の部屋で、リオは今、昏睡状態にある。アストは首肯した。
「明日の朝……できればリオには会わずに行きたい。君に頼んで良いだろうか」
承知しました、と応えるフォルクスの横で、ヴァンはリオちゃんには会えないかとかなんとかぶつぶつとぼやいている。
「……お前も運がないよな、ヴァン。サボるつもりで来た先で思いっきりその件で関わるんだから。ランディ家の長男の方も、そのうちどっかですれ違うんじゃないか?」
茶化してやると、ヴァンは意外と真面目に憮然とした。
「嫌なこと言うなよ。本当にそうなりそうな気がしてくるだろ」
「ランディ家にコネができるぞ。アカデミーに居続けるには有利じゃないか?」
「長男指示派に? 抹殺派に? どっちでも、反対側に目をつけられるじゃないか」
それから、妙に力を入れてきっぱりと言った。
「アルフェリア・ランディの件は、どんな状況でどんな風に関わってきても、俺は絶対に知らん振りしてやる。絶対に、だ」
明朝、日が昇りきらないうちに、ヴァンとアストは発った。
実は、と、別れ際にアストは言った。
「冷静になったあと、辛うじて思い出せる唯一が赤い目の、白い恐ろしい怪物を見たことだ」
その時、フォルクスはひょい、と肩を竦めた。自分のことだ。アストは苦笑した
「君がただの得体の知れない白子なら、リオのことを頼もうなどと思わなかった。ただの怪物でも、だ」
彼は、本当は彼女のことをどう思い、どう扱っていたのだろう。そんなことが気になったが、たぶん、訊ねても意味が無い。
「その傷も……僕だな。詫びておく」
それこそ精霊に頼んででもさっさと消してしまえば良かったものを、面倒で放っておいた、例の頬の傷のことだ。
「別に一生ものってわけじゃないし、しょせん男の顔ですよ。
でも、まぁ、悪いと言ってくれるなら、そのサイオニックを捕まえた時に、この傷の分も余計にぶん殴っといてくださいよ」
それが、はなむけの言葉になった。
欠伸をする。昨夜は不寝番を買って出たので、少し眠い。
昏睡を続けるリオを放置するのはまずかろう、というのが主だったが、はぐれたきりのレイチェルのことも気になっていた。アルサロサの近隣を巡る風の精霊たちにはエルフの少女の安否を見かけたら知らせてくれるよう頼んでいたが、眠ってしまうのには抵抗があった。「精霊って寝てると教えてくれないの?」という昨夜のヴァンの疑問については否であるが。
よく知るあの妖精の村が消えた時、たぶん、彼らはフォルクスにその声を届けたはずだ。なのに、フォルクスはその夜、安穏と眠っていて、少し夢見が悪い、という程度にしか思わなかったのだ。その妖精の村が消えたと知ったのは、さらに三度も眠った後、偶然に
遊びに行ったときだった。
さして面白いことがなかったとはいえ、それまでの安穏とした生活を投げ打ってまで妖精の村の消えた原因を探ろうと思ったのは、それに気付けなかったことへの罪悪感が大きな動機になっていると、いえなくもない。
何度目か、様子を見るためにリオの顔を覗きこむ。
寝顔は穏やかだ。顔色も悪くない。たぶん、疲れていたのだろう。
不意に、彼女は昨日の事件で一度も、悲鳴らしいものすら上げていなかったことを思い出した。恐かったことも多かっただろうに、気丈にも、ずっとそれへの反応を押えこんでいたのだ。たぶん、気を張りどおしだったに違いない。
あたりの気配に誰もないことを確認してから、フォルクスは一度部屋を出て、階下へ降りた。宿の主人が、朝食にパンが焼けたから取りに来い、と声をかけてくれたのだ。
目を開けたリオの目の前にあったのは、異様に真っ白な人の顔だった。目と唇だけが血のように赤いその男は、はじめ驚いて、それから決まり悪げに笑いながら顔を背けた。「悪い……」とか何とか言いながら。
それから、朝食だ、と焼きたてのパンとミルクを差しだしながら、リオが聞いているかいないかの確認もなおざりに、彼女が眠っている間の話を始めた。