森の風と潮の風が混ざる街、アスリースの主港を臨むレクサは常に人と物の出入りする、活気の絶えない街だ。異国の果物が路肩で売られ、内地からの荷馬が海へ向かう。魔力国家ゆえに、魔術師の出入りも多い。
テーヴァ国境の町リルクリルから馬車を駆ってまる一日と少し。フォルクスとリオ、それに見送りのために同行したセザールとは一夜を野で過ごし、翌朝少し遅く日の高くなった頃、この街の門を潜った。
短い旅の前半、ハワード医師に借りた馬車の手綱を先にとったのはフォルクスの方だった。理由は明解。前夜の宴で杯を重ねすぎたセザールが二日酔いに悩まされていたからである。酒量でいえばフォルクスはその少なくとも倍は呑んでいて、セザールはそれにつられた形であるはずだが、こちらはけろりとしたものだった。
「どういう体の構造をしてるのやら……」
負け惜しみめいたセザールの冗談に、
「ザルの原因は体の中で精霊が呑んでしまうんだ、とか言ってた友人がいましたけどね」
肩を竦めて冗談で返したフォルクスは、何か思うことがあってか、リオに酒をすすめるのだけはいやに用心深かった。
レクサに着いて、まず向かったのはフォルクスの実家、バーム家の別宅である。海路でやってくる取り引き相手や客を向かえたり、荷を出す管理をするためのもので、街の中でも港にほど近い区域には、そうした商家の別宅ばかりが並ぶ一画がある。
その一つに入って行こうとする前で、三人は「兄ちゃん!」という子供の声に出迎えられた。
年は十歳ほど、黒い髪の少年は元気よくフォルクスに駆けよって来る。あとに七歳くらいの赤毛の少女と、四歳くらいのやはり赤毛の男の子。
「チビどもがいるってことは、来てるのは親父じゃなくて兄貴の方か」
フォルクスは呟いて、それからセザールとリオに、上の兄の子供たちだと紹介する。
フォルクスに纏わりついてくる子供たちを追いかけるようにして出て来た中年の女中がそれを見て、あら、と言った。
「珍しいですわね、フォルクス坊ちゃんがこちらにおいでなんて」
「……兄貴、居る?」
さすがに、この年になって「坊ちゃん」と呼ばれるのには少し抵抗がある。
「ええ、若旦那様と若奥様と…奥様もおいでですよ」
それから彼女は少し声を潜めた。
「つい先日、兵隊がフォルクス坊っちゃんのことを聞きに参りまして……」
「兵隊?」
「ええ。何でもラジアハンドのとかで……坊ちゃん、何なさったんです?」
ラジアハンドという名前が出てきたので、何のことか判った。セザールが後ろで笑うのをかみ殺している。
兄の末っ子が、フォルクスの服をきゅっと引っ張って、「ばあたん、ないてたよ」と言った。
バルカス・バームはフォルクスより十歳上の三十一歳になる。
フォルクスとは対象的に体格が良く、やや浅黒い肌をしている。徐々に父親の仕事を引き次つつある彼は突然やってきた末の弟の頼みごとを、歓迎はしないまでも邪険にはしなかった。
交易商船の出港は明後日の昼過ぎ、最初にフォルクスが考えていたようにまるっきりタダ、という虫がいい話では無いものの、行った先のナジェクの街で三件ほどに手紙を届けるという簡単な仕事と引き換えとの条件になった。
ついでに自分とリオを出港までと、望むならセザールがレクサを発つまで泊めてくれ、と言うと、客室二つくらいなら開いているからかまわない、との返答が来た。
「二つって、兄貴……俺は?」
「出港まで子守りくらいしてもいいだろう」
「……チビどもに埋まって寝ろってことか。まぁ、いいけど」
唐突に、客間の扉が開いて中年の女性が入って来た。背後で止めようと慌てる女中の手を振り切ってフォルクスに駆け寄る。その目は、やや尋常と外れた光を持っている。
「……母さん?」
「心配したのよ、フォルクス。ラジアハンドの兵隊があなたのことを調べに来るのですもの」
例のビショップ誘拐容疑のことだ。
「白子だと……そう言ってあなたのことだと言うのよ。どうしてかしら。
あんな気味の悪い、不吉な、化け物みたいなのと、どうしてあなたが一緒にされなければならなの?」
期せずしてそれを聞くことになったリオやセザールの方がひやりとしたに違いない。他人事のように目の前の息子への蔑みの言葉を口にしていながら、しかし、彼女はその言葉通り、心底からそれが不当だと言わんばかりだ。さらに、その事実に気付いていないわけではなかろうに、バーム家の人々は誰も、そのことに特別な反応を示さない。
フォルクス自身、落ちついたものだった。
「大丈夫だよ、母さん。それ、勘違いだったってさ。俺じゃないし、その白子って奴でもないよ」
奇妙な会話だ。誰が見ても見紛うことなき白子のフォルクスが、それを他人事のように話し、その母はそれが当然のように受け止めて“見知らぬ”白子を罵り、フォルクスをいたわっている。
ちらりとセザールとリオの方に目を向けたフォルクスが、やや困ったように、目だけですみません、と言ってきた。
ひとしきり、そんな会話が続いて母親が去ると、兄バルカスがフォルクスに説明を求める。
「勘違いは本当……ほら」
ふと思いついて、以前にルンドから貰った謝罪と謝礼の手紙を見せる。何よりも“最高位騎士”の署名が効いたに違いない。なるほど、とバルカスは納得した。おそらく、これは何かの間違いでかの命令の撤回を知らない兵士や騎士に出会ったときにも使えそうだ。そこまで考えてこの手紙を寄越したのなら、やはりあのルンドという人は凄い、とフォルクスは思う。
それから、連れの二人を振りかえった。
「すみません。母は俺を白子だと信じてないもので……」
まるで、ちょっと物忘れが激しくて、というような軽い調子で言う。
「無いとは思いますけど、あの人の前でだけはそういう話は禁句でお願いします」
フォルクスの母、リアは彼を産んでその姿を見た瞬間から精神の拮抗を崩していた。その子を白子であると、決して認めず、その真っ白な髪を「輝く銀髪」、血の色の瞳を「綺麗な緋色の瞳」と呼び、「とても日焼けのしにくい体質の子」だと言った。白子であると指摘すると、半狂乱の体(てい)で否定した。ただ、彼女はその息子のことさえ除けば全く正常で、商売にも欠かせない人だったこともあり、バーム家としては、どうせ子供のことは長いことではあるまいと、彼女に対してその点を触れず、ということになった。
「ところがまぁ、こう育ってしまったんですよ、これが。ま、最近じゃ近所の人も判ってるんで、ああいう発作は滅多に無かったんですけど」
リオとセザールに説明するフォルクスの口調は内容とはかけ離れてあっけらかんとしていたもので、相手は咄嗟にどう答えてよいかも判らなかったに違いない。
通りがかった部屋の前で、リオの耳に不意に人の話声が飛び込んで来た。声のひとつはフォルクスで、もうひとつは確か、彼の兄の妻と紹介された人の声だった。
女性の声は、旅先でも、もう面倒事だけは起こさないで、と言っている。
「そりゃぁ……でも、俺だって捲き込まれたくてああなったわけじゃないし。
ま、義姉さんやうちに迷惑かけるようなことはなるべくしないように、気を付けるよ」
「本当に、お願いよ……お義母さんは、発作さえなければ本当に良い人だし、有能な人なのよ。どうして……っていつも思うの」
女性の声は湿っぽくなっている。
「義姉さんには迷惑かけて悪いとは思ってるけど……」
「どうして……本当なら、もうとっくに終ってるはずなのに。どうしてあなたはまだ……っ!」
「どうして俺はいつまだ死なずに、母さんの病原やってるんだろう」
言いかけて飲み込まれた言葉を、フォルクスは低い、微かに笑いを含んだ声で再現した。
「違う、違うのよ、フォルクス、あのね……」
「いいよ、義姉さん。昔からみんなそう言ってるから。親父や兄貴たちから掃除番の女中さんまでみんなね。だから義姉さんも気にしなくていいよ」
フォルクスの声は優しい。
「俺は、だから自殺しようというまで殊勝にはなれないもんだから迷惑かけるけど……母さんは悪くないから。
義姉さんには悪いけど、母さんのことはよろしく」
リオには、別に聞く気はなかったけれど、聞こえてしまった。
不意にその部屋の扉が開いて、出てきたフォルクスに出くわした。
フォルクスはリオに気がついて、少し困ったように苦笑しながら頭をかいた。
「……聞こえちまった?」
視線が僅かにさ迷ってから、付け加える。
「誤解するなよ。義姉さんや他の皆が悪いわけじゃないからな。仕方が無いんだよ」
生きようと死のうとどうでもいい家族――自分の“方には”全くいない。それはつまり、こういう意味だったのだ。