ファンタジア

リョウルク10

 リョウルクの上に最後まで強情に居座り続けた真紅の狸像が退かされたのは、雪崩れの随分後の事であった。黒い長衣に紅い染みが移る、そのくらいの時間だ。
「大丈夫だったかい? 客人さん」
 そう言われているのにぐいと引っ張られる事が何か矛盾している気がした。
 例の通る声である。言い方を変えるならば武具の雪崩れの発生源となろう。太くはあったが高くもある。おそらくは女性。
「大丈夫、かな?」
 と言ってから確かめる。骨には異常は無いだろう。どこも自由に動く。胸が痛むのは狸像が乗っていたせいに違いないが、被害は衣の色が、黒に紅が滲んでいるくらいだ。汚れを気にしての黒だったのだが……。
「しゃべれるなら大丈夫さね。気にせんことよ。この店にゃよくある怪奇現象よ」
 女性は朗々と豪語した。
 ――絶対に違う。
 そう確信したがリョウルクは賢明にも口には出さなかった。出せなかった。変わりに憮然として立ち上がる。
「へぇぇ。客人さんはリズマンかい? ま、間違えるって訳でもないけどさ。リズマンってのは大体が傭兵か侍衆だろ? こんな妖しいぼろの店に入って来るのは食い潰れた流浪衆ばかりなもんでね。気を悪くしないでくれよ。ただ純粋に珍しいって訳よ。ふぅん。素人でも無いけど……玄人とも言えないねぇ。長衣だけじゃリズマンにゃ寒かろうに。あんた。旅慣れてないね。長衣は確かにねぇ、収納できる良い服ではあるんだけど食べもんは止めたがいい。乾物でもすぅぐに湿気ちまうよ。入れるんならお薦めは暗器(隠し武器)の類だね。テーヴァを知らん奴らならいちころさ。相手が人だったらね。他はねぇ。うん。石でも詰めときな。つぶてになるし体鍛えられるし殴ったら痛い。いやぁ、名案だわ」 
 女性はそう一気に話し立て、豪快に笑った。その姿は、えらく、何と言うか、世間慣れしている。見かけの年の割りに。
 そう。見かけは若かった。リズマンの目から見ても二十半ばも達していないのではないか、と思わせる。そんな「娘」だ。良家の御嬢としたら完全にいき遅れだが、この時代開国の影響か女身で流浪する女性も多いと聞く。開国後第一世代の者達には異国に対する憧れが強い、とリョウルクに溜め息混じりで語った行商人は言っていた。
いわく、商の世界でとてつもなく強い女性がいるのだと。
 女性は一方的に話し続けていた。
「――刀ってのは大体が斬るように出来てんのさ。そこんとこが今時分の侍衆は解ってない。戦が無いのは分かるけどねぇ。戦えない侍衆に何の意味があるってんだい? どうやって自分生きてんだい? 何で民草があんたらを食わせてんだい? あたしゃそう思うんだがね。あの例の宿の酔いどれ婆ぁは『さむれぇを生かすとはわんれらの生きげぇだぁ』なんてほざいてやがる。いいかい? 刀ってのは斬るもんだ。どこぞのぶっとい剣のように叩きつけるもんじゃない。そんないいかげんな使い方しちまうとすぐに芯が歪んじまう。だから在村の刀は――」
 立ち上がって見てみると分かったが、女性は人間にしては、とりわけ人間のテーヴァの女性にしては上背があった。リョウルク胸くらいまでか。大女と言えようが、さほど太いわけでもない。がっしりとした印象はあるものの、よくよく見ると細身である事が分かる。
「――それで在村の親父さんは言うのさ。『刀の使い方も知らん坊に我が刀をどうしてくれようか』ってね。あのとっつぁんもいいかげんに頑固でね。自分が気に入った相手にしか打たんのよ。刀。いちいち面と向かってそれを見極めるんだから時間がかかって仕方なくてね。それであの行列さ。まぁ。あれでこの都は盛況なのは間違い無いから、馬鹿な侍衆も滅多な事は出来やしない。都は年数本の刀でもってんのさ。んでね――」
 顔は見間違えようの無いほどのテーヴァ顔だ。髪もつつやかなとでも言おうか、吸い込まれそうなほどに美麗な黒髪である。しかし、身なりはどう贔屓目に見ても異国の物にしか見えない。肩の所で鈍く照り光る甲殻が――おそらく防御性も兼ね揃えているのだろう――擦れた色の外套を止めているし、高くとめられた黒髪の向こうには刀、いや剣の柄が見えている。歩み方は見えなかったが気配からして、まずただの流浪衆とは思えない。かなりの達人だと見る。
「――あたしゃ一応はだがね、ナイトって事になってる。知ってるかい? 外の侍みたいなもんさ。何処にも仕えちゃいないがね。しいて言うならば自分に仕えてるってとこかな。吹かし過ぎか。うん、でもあたしゃ他の連中とは違って金銭になんかにゃ仕えとらにんよ。ちゃんと目標があってこの世界にいる。聞きたいかい? それはね――」 
 剣の柄は手の形に摩れている。相当以上は使い込んだ証である。
 一体何が彼女をそうさせたのか。
 リョウルクは初めて彼女の言葉を待った。

「夜を見ることさ。自分が生まれ育った自分の夜をね。感じたいんだ。夜の町を」

 彼女の力強い笑みにリョウルクは、目標の凄まじさを知った。

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