海の路を行く旅人よ、海神の娘らの先触れに心せよ
訪なう禍は彼女らのさざめき笑いの司りし波の如く
狭間に気まぐれに漂いて返して寄せるものだから
されど諸々変幻せし万危の先触れを余さず捕らえるは
ただ海神の娘らが恋し守護したもうた灯台の守人の
死して四散せし魂の宿る 海の神の創り賜いし玉石ばかり
―――作者年代不詳・古き海人の伝承歌
「手配はできてるわね」
“海の向こう”エーレブルー王国皇太子妃レベッカは言った。
「はっ。しかし、国王陛下のご命令では戻ってくる気が無いのならセントルシアの小娘は放置しておいてよいと……」
「ええ、放っておいていいわ」
「……は?」
「でも、遙か異大陸の蛮地へ亡命した王女が現地の海賊に襲われて絶命したのなら、それは不幸だけれど仕方がないわね。わたしの知ったことではないわ」
その笑みは嘲笑するようであり、哀れむようでもあった。
「国王陛下の御意のとおり、あの子のことはこれでおしまい。これ以上、関知する必要は無いわ」
これ、という言葉と同時に、王家の紋章の入ったコインの首飾りを投げてよこす。
「“彼ら”にも、報告は必要無し、と言っておきなさい」
絶望を与えればいい。帰ってくる気を、徹底的に叩きつぶしておけば良いだけだ。心の中のその声はレベッカの口から先に出ることはなかった。
本人への詮索を止めることはできても、人の詮索の想像を止めることはできない。娯楽の少ない船上での噂話はその傾向にさらに輪をかける。リオへの詮索は、人々が本人に届かないことだけに気を配るあまり、結果的にはまるで陰口のように続けられることになってしまっていた。
あれはどういうことだ。ひとつ間違えば彼女のせいであの船におそわれたのか?
これから、本当に二度と無いのか、否か……
本人には聞かせないように伺いつつ。それが一見、気遣いに見えて、実はどれだけ当人にとって残酷で無惨な意味を持つか、フォルクスは母を見ていて、あるいは軽度ながら身を持って、知っている――いや、最初から覚悟できる自分に比せば、予測し得ない分では、彼の想像を上回るに違いない。
対処の判断を誤ったか、と密かに後悔しつつも、それがリオの耳になるべく入らないように気を配る以外、何事も為し得ないままに数日が過ぎた。
「おーい、リオ」
船室の少女へ声をかける。先日の、正体不明の船の接舷の一件以来、彼女は心なしかこもりがちだった。
「今日の夕方にはストレシアに着くってよ。荷の上げ下ろしで二日くらい停泊するから、その間に陸でちょっと気晴らししてこい、って船長が言ってたぞ」
やや間が空いて、それからリオは小さくうなずいた。フォルクスは小さく息を吐く。口を開きかけたとき、不意に、微かな音が二人の耳を打った。高い、鈴を激しく鳴らしたような、しかし奇妙に意識に引っかかる音だった。
軽く眉をひそめ、音の出所を探って沈黙する。それから、気が付いて取り出したのは『灯台守の心』。黒に近い濃紺色の石であったのが、ぼんやりと白い光を放っている。
『これには神力が込められていて、船に迫る危険を察知してくれるんだ。おまけに、持ち主を護ってもくれる。すっごいお守りだ』
これを手渡されたとき、セザールが告げた言葉。
「これ、持ってろ」
光と小さな音を発する石をリオに押しつけて、フォルクスは甲板へ駆けだした。
甲板の空気は和やかに見えた。が、さらに先の視界、海の沖に船影が引っかかる。奇妙だと思った、その理由は直に知れた。その速度が尋常ではない。
「船長!」
明らかにこの船へ接舷、いや、追突してこようとしているその船にフォルクスが気が付いたのと、物見が声を上げたのが同時。
畏怖をあおり立てる黒い帆を掲げて、ほどなく船影は、その甲板で掲げられた剣身の煌めきを確認できるほどになる。
海賊だ。不思議はない。なにしろ治安の悪名高きストレシアの領海である。
こちらの船の護衛たちの準備は間に合いそうにない。
フォルクスは船縁近くまで駆け寄った。海、波、その特有の精霊の気配と意志を捕らえる。救いを求めるように手を伸ばす。
(海の……海水の精霊よ……頼む!)
ややあって、精霊の呼応の意志を受け取る。そして現象として現れる。
「準備を早く! 少しの間だけだ」
精霊の働きで、海賊船の船足が急速に緩くなる。
「おう!」
一番早くフォルクスの隣に陣取ったのは、以前、酔ってリオに絡んでいたあの男――名はゴメス。剣は腰のまま、がっしりとした弓に同時に五本の矢をつがえている。
「火矢は見えない。たぶんない。積み荷狙いだろうからな。嬢ちゃんは?」
「まだ、中」
「……嬢ちゃんに怖い思いさせる前に、終わらせにゃぁな。この間の詫び代わりだ」
「同感」
――空行く風を司りし者よ 我パウ・エルンの名を以て……――
魔術の詠唱は背後から。船の警護は確かこのソーサレス一人を含めて六人ほど。他に、乗員も多少の剣の心得はあると聞いている。
一陣、追い風が巻き起こる。その風に合わせるように、ゴメスの矢が放たれた。五本の矢は先の船の五本の剣を持った腕を貫く。
「船長、接舷を!」
あわてふためく海賊どもを目視した魔術師の声。
「坊ちゃんはどうする?」
「接近戦はあんたらに任せる」
フォルクスは船縁を離れて下がった。海の精霊の呪縛を解かれた海賊船が速度を上げるより速く、こちらから接舷する――海戦において、自らの意志で接舷できるかどうかが勝敗を左右すると言っていい。乗り込むにも迎え撃つにも、機会とタイミングを計れることが重要なのだ。
ゴメスや仲間の戦士たちの手元から立て続けに矢が放たれる。ゴメスの第二射は利き腕、喉、あるいは大腿狙い。一本で一人を確実に戦闘不能へ追い込む。やがて海賊たちが乗り込んでくると、彼らは弓を放り出し、抜刀した。
「よく、気がつかれました。どうやら追い払えそうです」
魔術師パウが感心したような声でフォルクスに耳打つ。
「友人、いや、恩人にもらったお守りのおかげで。
こういう時は追い風の後押しが常道?」
「ええ。炎は厳禁です。敵の退路を断っては意味がありません」
ソーサレスとフェアリーマスター。二種の魔法の計算された風の後押しを受けて、戦士たちは優勢だった。
「しまった!」
声はゴメス。彼らを強引に突破して、海賊の一人が背後の魔法使いたちへ襲いかかる。
剣の形をした血臭が、フォルクスに襲いかかる。それは、初めて感じる戦いの臭いと恐怖。だが、同時に頭の逆の隅では対応の方法を考える。
四散し戦士たちの後押しをしていた風を集める。その大量の風が襲いかかる海賊の剣と狙われたフォルクスの身体との間に入り込み、押し返す。―――後になって思えば、そんな対処ができたのは、皮肉ながら、彼が白子であるが故に常に意識していた、本来の感情とは別に“普通”を演じているため、そのために常に二重の意識と思考を保っている習慣が幸いしたに違いない。
風はしかし、固定はしない。だが、その咄嗟につくった僅かな時間の末に、視界を覆っていた海賊の身体が崩れ落ちる。吹き上がった血の霧の向こうに、剣を振り下ろしたゴメスの姿。
「わりぃ。二人とも無事か?」
フォルクスは片手を降って無事で在ることを答える。その隣で、パウがふと、かがみ込んで倒れた海賊の血だまりの中から、おそらくはその倒れた本人が落とした一枚のコインを拾い上げた。鎖が取り付けられてペンダントになっている。
「……この紋章」
つぶやく魔術師の手元をのぞき込んで、フォルクスは反射的に、彼の手元からそれを奪い取った。
先日の、あの船の紋章。そして、アルサロサを襲撃した騎士団の―――
『……もうエーレブルー国は貴方に手出ししないわ。約束する』
『あなたの約束なんか充てにしない』
『そうね。賢くなったのね』
リオと、あの船の女の会話。
『……もう迷惑はかけないから』
“迷惑”という単語。これを知ったら、彼女はどう思うだろう。
「ゴメス、パウ」
フォルクスは、そのペンダントのコインを堅く握りしめた。
「あんたらは、何も見なかった。いいか?」
戦士と魔術師は顔を見合わせた。
「海賊たちに、この戦いに勝てる、あなたはその恩人です」
パウは言った。
「それにわたしたちは不甲斐なくも、航海の半ばにもならないうちに二度も他の船の接舷を許して、客人であるあなたがたを危険にさらした。それは僅かづつでも償なっていかなければならないでしょう」
「俺も何も見ていない。それにまともに考えりゃぁ、なんにしてもあの嬢ちゃんが悪いことは一つもねぇ。元々余計な詮索は不要、だったな?」
ゴメスは歯をむき出してニヤリと笑った。
「庇うもんだな、わからねぇじゃねぇけどよ」
「まぁな。ありがとう」
フォルクスは笑い返し、勢い良くペンダントを放り投げる。紋章の入ったコインは波に飲み込まれて、消えた。
「さぁ、もう一息だ。さっさと連中を片づけちまおう」
「今夜はこれの先勝祝いと行きましょう」
パウはそう言って、再び、詠唱に入る。
「もちろんつき合うよな? 飲めるんだろうな、坊ちゃん」
「俺はな。リオに無茶はさせるなよ」
「嬢ちゃん向きの軽くて美味い酒も出す、いい店を紹介するさ」
ゴメスは振り上げた剣を大きく振り上げて血糊を振り払うと、無造作にすぐ背後に迫っていた海賊をなぎ倒す。まだ引き上げない海賊はあと僅か。そちらへ踏み出す。
その背を押して動きを助けるために、フォルクスは再び風の精霊の助力を請うた。